*Complex+Drive*

勝手に上から目線の、真っ黒な。

※※ネタバレ感想※※映画『アベンジャーズ/エンドゲーム』

※※この記事は映画『アベンジャーズ/エンドゲーム』のネタバレを含む感想になります。

 

結局、最も普遍的である“幸せ”に対する“価値観”の相違に基づく物語である。

最初の前提として断っておきたいのだが、私はサノスを“悪”とはみなしていない。彼は自身で人口過多による故郷の喪失を経験していて、それ故に“均等に”“無作為に”人知れず、宇宙の人口バランスを保つ活動を行っていた。この広い宇宙で、誰に頼まれた訳でもないのに、自分と同じ苦しみを味あわせたくない一心で、誰もやりたくないだろう殺戮を繰り返したのである。そんなことを長い間続けてきて、“均等に”“無作為に”殺戮を“選ぶ”ことに疲れ「そうだ、インフィニティー・ストーンを使おう」と思い当たったことは決して非道なことではない。なにせ星も生まれも育ちも資産も頭脳も性別も種族も健康も何もかも関係なく、きっちりと、それこそ平等に半分消されるのだ。考えてみれば、これは普段生きている我々が置かれている状況となんら変わりない。私達は常に50パーセントの確率で死ぬか生きるかの状況下にある。それが私達に与えられた唯一の平等ではなかったか。

その真の平等に不平があったからこそ、バートンは生き残った悪人たちを狩らずにはいられなかった。なんの罪もない家族が消え、血塗られた己が生き残った。

――何故?何故?何故?

どうして自分は生きている?どうしてあいつらは生きている?

バートンの行いを責める向きもあったが、致し方ないことである。そこに辿り着いた理由はまさにサノス同様、自身の経験に拠るものだからだ。本当に残念なことだが、私達は自分以外の何者の視点に立つことはできないのだから。

 

5年というリアルな時間

人口が半分消されてから5年という時間設定が上手いなと思ったのは、5年あれば恋人が消えた者同士でカップルが成立していたり、それこそ残された者たちという結びつきの中、子供をもうける者たちも少なくなかっただろうと推測できるからだ。そう、トニー・スタークのように。

最初、トニーがスティーブたちの誘いに乗らない気持ちも痛いほど分かった。宇宙空間で死を覚悟した直後、帰還し、愛するペッパーは生きており、むちゃくちゃ可愛い娘も生まれた。彼には戦う理由がない。強いて言えば失われた人類のためと言えなくもないが、果たして失われた人口を取り戻すことが真のハッピーエンドと言えるのだろうか?サノスが経験した人口過多による地獄までの時間を取り戻すことが、果たして正義と言えるのだろうか?

しかし、天才故に負けた戦にアベンジしつつ、この5年も失わない確率に辿り着いてしまう。ここが他のタイムトラベルものと一線を画す部分になるのだか、何でもアリのトンデモ設定であることも事実である。一応回数制限がある前提だったが、タイムトラベルにストーンは必要ない。必要であるはずのピム粒子はスティーブが過去から持ち帰っているし、ピム博士が復活した今それは無限に可能だとも言える。ストーンでは正確な意味合いで、命を蘇らせることは出来ないが、タイムトラベルでは死んだ人間を現代に連れてくることは出来るということをガモーラが証明してしまっている。時間モノの整合性を保つというのは本当に難しい。

 

ヒーローの人間的側面

今回の展開はマーベル映画を10年間観続けてきたファンへのご褒美作品である一方、好きなキャラクターによっては失意の作品になってしまった。これも作品という特性上仕方のないところであり、意見が分かれるところでもある訳だが。

私は『マイティ・ソー』の時からソー好きを公言しており、彼の何とも言えない快男児ぶりにずっと好感を抱いてきた。ついには父を失い、破壊の女神ヘラ(実姉)の為に武器と故郷である自国を失い、「国民が在るところ国となる」を掲げて王として立ち上がろうとしたその矢先サノスに捕まり、目の前で義弟を含む多くの国民を失った。それでも笑顔を絶やさず、自らで武器を作り、決戦の舞台に飛び込んだ。しかしながら、自身の一撃でサノスを止めること叶わず、目の前でストーンを使われてしまう…。これがトニーだったら、もっと早い段階で「俺なんか…」といじけてやさぐれて引きこもっていたに違いない。だから私はここに来てようやく人間らしく、ぷよぷよで弱音を吐いて情緒不安定になっているソーを観て素直に笑えた。いやいや、エンドゲームのポスター詐欺じゃん!短髪のイケてるソーさん出て来ないじゃん!ってか見た目がネタバレってどうよ、美味しすぎる!と思った。過去に戻って生きてる弟には目もくれず(というか、今の姿を見られたら一生ネタにされるだろうな…)ママには洗いざらい話してしまうのもすごく良かった。ママ本当に素晴らしいママよね…「未来はあなたに優しくなかった?」って言い回しがとても偉大。それはともかく、私はファンとして好意的に受け止めたが、最後まで痩せなかったソーのギャグキャラ扱いを許せないと感じるファンもいることだろう。ソーについては車に轢かれての登場からだから、ずっと扱いは変わっていないようにも思うが…。

どうしても自分の人生というものを諦め切れなかったスティーブについてもそうだ。超人とは言え、これまで強靭なヒーロー精神で幾多の戦いに臨んできた彼であったが、最後の最後で自分自身の幸福を選び、生き抜いた。この事象にも多くの矛盾が解決していなくて、改めて考えると「ん?」と感じてしまうのだが、現代で得た友人、再開した友人よりも過去の恋人と結ばれることを選んだという結論に関しては人間味を感じた。サノスについてもそうである。これまで自らに苦行を強いる修行僧のごとき背中を見せてきたサノスであるが、今回の決戦にあたっては「地球の制圧を楽しませてもらう」と悪役的台詞を初めて言い放つのである。まさに私情である。ここに来てヒーローたちはあろうことか私情を挟んできたのである。その点において唯一の例外を見せたのがアイアンマンということになるが、この人選に於いては、彼からこの壮大なシリーズが始まったことを考えると必然とも受け取れる。

 

正義でヒーローを語れない時代へ

一時、ヒーロー作品は「正義とは何か?悪とは何か?」を問いかけてきた。『インフィニティー・ウォー』を観終えた直後、私はやはりサノスの“正義”について考えていた。しかし今回の『エンドゲーム』を観終えた後は、皆の幸せについて考えていた。何を正しいとするかは大きな問題だが、何を幸せとするかはより個々としすぎていてとりとめがないように思う。スティーブが選んだ行為は恐らく正しいとは言えないだろう。しかし彼の幸せを考えた時にそれは彼が選び取った時点で正解だとしか言えないのだ。王を捨てたソーにしても然りである。今の幸せが未来の世界にとっては正しくないかもしれない。それでもヒーローたちは今この時の幸せを取り戻す戦いに勝利したのだ。

このことがこれからのMCU展開にどう影響してゆくのか、この先も見守ってゆきたい。