*Complex+Drive*

勝手に上から目線の、真っ黒な。

エヴァンゲリオンと私〜空白の25年間〜

 私が初めてエヴァンゲリオンを観たのは、高3の冬、センター試験の前日だった。

 

その頃、同人誌を描いてるくらいにはオタクだった私は、訳の分からぬ“原作至上主義”を掲げていて、オリジナルアニメはおろかアニメと呼ばれているものを一切観ていなかった。紙ベースの漫画もしくは小説に準拠した二次創作に没頭していたと言えば聞こえはいいが、原稿と勉強が忙しくてアニメに費やす時間が惜しかったというのが本音である。

すっかり忘れていたけれど、過去の日記を引っ張り出したところ、どうやら私は当時後ろの席だった人(今は顔も名前も覚えていない)にしつこくエヴァを進められて、それをセンター試験の前日というタイミングで初めて観たらしい。12話だったというから、ほぼ物語の半分、たしか加持さんとヘリが出てきていたように思う。

即座にエヴァの魅力に取り憑かれた私は、そこからフィルムブックと呼ばれる、アニメのシーンに漫画の吹き出しを付けたような冊子で、1話から11話を補完しているだけなので、実は全話を観ていない。数年後に発売されたDVD-BOXは購入したが、結局1枚分しか観ないまま、今も部屋のどこかに眠っている(はずだ)。

それはさておき、まさに受験の追い込み時期にどっぷりとエヴァにハマった私は、完全にシンジやアスカとシンクロしていた。正体不明の敵、先行きの見えない未来、親という重圧、孤独な戦い…そしてその頃の私達は、まだアニメというものに希望しか抱いていなかったから「シンジとシンクロすることで、最後には自分自身も救われるのだ」と勝手に思い込んでいた。しかし、実際にはよくわからない独白の羅列のあとに「おめでとう!」と一方的に祝福を受けて物語は終わってしまった。急にシンクロを拒絶されて、彼らだけ祝福されて、こちらは闇に取り残されたような気持ちになったことを覚えている。

後から思えば、それこそが制作陣の思惑で、結局、アニメなんてものにすがって期待して助けてもらおうなんていう考え自体が甘いのであって「現実を見ろ」という当然の解を提示されたに過ぎないのだけれど。

そうしてしばらくはエヴァを恨んでいた。だって私を助けてくれなかったから。旧劇場版では更に嫌悪を募らせた。吐き気をもよおすほどの陵辱・残酷描写の連続で、それを子連れで観に来ている親たちにも怒りを覚えた。

そんな中でもミサトさんのことを好きになったのは、私の中では彼女だけが依存やトラウマを乗り越えて“自分で自分を幸せにする”という【補完】に成功しているように見えたからだ。だから私は今でも、人類補完計画とはそれぞれが自己の幸福を自己補完することだと考えている。

 

そんな私だったから、片足を突っ込んでいたよしみで付き合うつもりで観ていた新劇場版だったけど(エヴァを恨んではいたけれど、結局エヴァの同人誌は何冊か出したし、初めてそれなりに売れた本でもある)アニメ最終回から新劇場版の終劇までに25年もあったからこそ、抱けた感想もあるのでつらつらと書いておきたいと思う。

 

※※この先は劇場版本編のネタバレを含みます※※

※※考察要素はありません。ただの感想です※※

 

 

 

 

 

 

 

 

 

真っ先に思ったのは「相変わらず庵野さんの好きなものを見せられてるなぁ」という呆れを被った羨望である。シン・ゴジラもそうだし、シン・ウルトラマンもそうだし、彼の作りたい世界?場面?演出?を、お金を払って勝手に見に行ってるんだから文句を言う筋合いもないんだろうけど、重機とか有線とか本当好きだよねー。更に最後が監督の生まれ故郷とか…うーん、うーん…まあやっぱりゲンドウくんは監督ってことで良いのかな?うーん…とりあえず嫉妬はここまで。

 

後付とはいえ、結局エヴァが全編通して言いたかったのは広義の人類愛だと思いました。平和とか環境問題とかじゃなくて、純粋な人類愛。第三村で綾波が感じたぽかぽかに代表される、他者を受け入れる人の温かさが、破滅した世界と背中合わせで存在していて、誰もがこの穏やかな世界の終わりが何時ともしれないとわかっていながら、いつまでも続きますようにと祈りながら生きている。これってまさに人であれば平等に与えられている状況で、この今1分1秒、誰もが死と隣り合わせで「生きている」んだよね。1秒後、この心臓が止まるかもしれない、地震が来るかもしれない、車にはねられるかもしれない、誰かに殺されるかもしれない、毎秒50%の確率で生きている事実は、あんな究極の物語の中でなくても同じことで。でも実際はそんな嫌な事実を忘れたふりして、平気で人を傷つけたり、貶めたり、蔑んだり、生きにくい世の中を作り上げちゃってる。まあ、昨今の避難所での悲惨な状況を思うと、村はやはり空想の理想郷なんだろうなと思わずにはいられないけど、本来は究極の状況下で人が生きていくには、思いやって支え合うことが必須(理想)であって、「今」も究極の状況下であるのだから、思いやり支え合っていいじゃないか。もっと他者に対して優しくてもいいじゃないか。ついでに言うと、1人が好きで、他人に合わせるのが苦痛な僕(ゲンドウくん)にも優しくしてよ!愛してよ!って話ですな。だから広義の人類愛。どんな人だって人類だからね。同じ人類なんだから他者を愛するなら僕も愛してよっていう叫び。

 

物語的に言えば、ジェンダー問題を恐れずに表現するなら、母性の話に尽きるのかなぁとも思う。みんながみんなとはもちろん思わないけど、私だったら絶対に息子を取る。産んだことないけど。旦那か子供かってなったら、ぜーーーーったいに子供を取る。ユイさんはよくわからないけど、ミサトさんはまさにそれで、お腹に子供がいたから加持を見送れたし、子供が生きてる世界があるから守るために戦うっていう気持ちは痛いほどわかった。だからね、ゲンドウくんには申し訳ないけど、ユイさんは別にゲンドウくんには会えなくても困らなかったんじゃないかなぁ。エヴァとシンちゃんと居られればそれで。逆にシンちゃんを大事にしなかったゲンドウくんには怒って良さそうだけど、ゲンドウくん的には「もう、困った人ね。こんなことしなくても私はシンちゃんの中にいたのに。仕方のない人…」とか言われたいんだろーな。あー気持ち悪い。

 

そう、TV版から謎だったんだけど、ゲンドウくんはユイさんの血が半分入ってるシンジくんにどうして優しく出来なかったんだろう。やっぱり息子だから駄目なの?娘だったら良かったの?愛するユイさんが産んだシンジくんの中に、ユイさんがちゃんといるってことに、本当に本当に最後まで気づいていなかったのかな?だとしたらゲンドウくん本当に馬鹿だなーって思う。もしかして初号機に取り込まれたユイさんに再び会うためには、息子を追い詰めて、息子を守るために出現することを期待してのやり方だったのかなとも一瞬思ったけど、その可能性は低そう。普通最愛の人が守りたいと願ったなら、代わりに守ると思うんだけどな。どうだろ。

 

にしても、今までのエヴァになくて、今回の終劇にあるのは、やはり父と子の決着だったのかなとか。エヴァシリーズは全部観てるはずなんだけど、全然覚えてない。けどやっぱり今まではシンジくんの心の葛藤に決着はつけても、お父さんとまともに向き合って決着ついた印象はないから、そこをちゃんと描きたかったのかもしれないとか思ったり。

 

とにかく本当25年間ありがとうエヴァンゲリオン。そしてさよなら。あなたは間違いなく私の青春でした。