女子的『シン・ゴジラ』感想。
※ネタバレを含みます。
ちなみにリアルでは、いい年こいたおばさんが「女子」と呼称するのは虫唾が走ります。
うちの会社の女ボスは還暦間近で「女子集まって~」とか「いつも女子が苦労して…」とか言っててマジ気持ち悪いです。
閑話休題。
さて、私はゴジラ初心者という訳ではありません。ビオランテ以降は飛び飛びですが数作観てるはずです。数年前のハリウッド版も観ました。昔は正月と言ったらゴジラ映画だったので、馴染みみたいなものはあります。
男の子のワクワクがいっぱいに詰まったごっこ遊びの極致。
女子的感想と言えばこの一文で全てが事足りるのでは無いでしょうか。
飛行機が出てきて、戦車が出てきて、ヘリが出てきて、新幹線が出てきて、電車が出てきて、重機が出てきて、怪獣が出てきて車や船を押し流している。ただ歩いてるだけの怪獣に大人がワーキャー逃げ出して、色んな所がボンボン爆発して、見慣れた景色が破壊されてく。
これでウルトラマンが出てこれば更に完璧です。
おもちゃを片手に「ヒュー~ドカーン!ハイ○○君死んだー」「今のはギリギリかわしましたー」「追尾ミサイルなので避れませんー」「じゃあステルスバリアー」みたいな、子供ならではの無邪気な破壊衝動を、お金を掛けた映像で見せられている気分でした。
だからこそ、中盤までは“うん、みんなが観たかったゴジラ映画はこれかもしれない”という感想を抱いていました。
評価が分かれた理由。
何故敢えて[中盤まで]の評価としたのか。
どの業界でも、100人中100人の満足を得られる作品は有りませんが、観れば必ず評価が分かれる映画だということは痛感できるはずです。
私はこれを2つのグループ、“ゴジラファン”と“庵野ファン”に分けて考えることにしました。
- ゴジラファンとしての作品の評価
『シン・ゴジラ』には評価できる点が3つあります。ひとつは、作品の中でゴジラという存在が未知なる生物であったこと。二つ目は近年の傾向であった怪獣VS怪獣の構図を取らなかったこと。最後に、ゴジラに勝利したという点です。これらを踏まえると、スタッフのゴジラに対する深い愛情、初代ゴジラに対する敬愛、オマージュ的要素がふんだんに盛り込まれていることが分かります。
その為、往年のゴジラファンからは一定の評価を得ているのではと推測されます。先述した幼児的破壊行動と平行して、日本人が未曾有の巨大生物に対し、一丸となって立ち向かい勝利する。これもまたみんなが観たかったゴジラ映画の姿ではないかと思ったからです。
特に近年のゴジラは撃退がせいぜいで討伐には至っておりませんから、人がゴジラに勝ったという終わり方は大きな選択だったと思います。
- 庵野ファンとしての作品への期待
エヴァと『アオイホノオ』程度には庵野さんを存じ上げているつもりですが、『シン・ゴジラ』を“あの”庵野監督の作品だからと観に行った方も多いと思われます。
その視点から言うと、今回の映画は綺麗にまとまりすぎている感が否めません。
途中までは圧倒的だったゴジラが、終盤になるにつれ、あれよあれよと人類の思惑どおりに動き、最終的に敗北してしまうのです。更に“みんなの力を一つにして”というありきたりな人間讃歌がまかりとおって収束というのも、ひねくれ者の我々には物足りない。不満の残るエンディングに感じられてしまいます。(最後のアレは庵野さんの悪い癖なので触れません)元を正せば、エヴァが庵野作品のなかの異端であって、おそらく庵野さん自身はハッピーエンドが好きなタイプなのではないかと勝手に思っております。
しかしながら、どんでん返し慣れしてしまっているエヴァ世代の我々は、一度仕留めたと思われたゴジラが再び動き出すのを、固唾を飲んで見守っていたわけです。こんなところで終わらない、まだ何かあるはずだという期待――――それはあっさり打ち砕かれました。
じゃあどうやって物語として収拾をつけるんだと思われるかもしれませんが、収拾なんてつかなくて良かったんです。そもそもエヴァには収拾なんてついていない訳ですから、我々はある意味投げっぱなしの庵野節に期待していたとも言えます。
それを真面目な庵野さんが取りまとめようとして下さってるから、こんな事態に陥っている訳で……。
例えば、ウルトラマンのような巨大ヒーローが突如現れてゴジラを宇宙空間に持ち出すとか、核まで使ったのにゴジラを止められず、人類は延々とその存在に脅かされるとか。
あまりのトンデモ映画になりますが、それもまた私達が観たかった庵野映画だったのかもしれません。
総評。
結論として、映画は普通に面白かったです。所々やりすぎな感も否めませんが、多くの人が待ち望んでいた、怪獣映画でもない、SF映画でもない、“ゴジラ映画”を日本人が取り戻したという感覚に、素人ながら感心しました。それだけでもこの映画は成功したと思います。
ゴジラ映画とは何か。侵略者でも守護者でも破壊者でもない、[災害]としてのゴジラではないかと私は思います。
彼はただ、海から陸に上がり、ただ歩いただけです。陸上を行く台風や竜巻に近しい存在です。それがどんなにどうしようもなく、理不尽で恐ろしいものか。近年震災を経験している日本人だからこそ、[災害]としてのゴジラを身近な恐怖として捉えることが出来る訳です。それと平行するように、再び核が落とされたらすべてが無に帰す恐怖も、私たちだからこそ深く受け止めることが出来る。兵器に奢り、生物として駆除出来ると高を括った結果、見事に返り討ちに遭う人類の永劫なる愚かさ、それらを「ゴジラ」を通して描くことに、ゴジラ映画の根幹がある。その点で、私は『シン・ゴジラ』を“皆が観たかったゴジラ映画”と評したいと思います。
個人的に好きな画は、ゴジラがオレンジ色の炎の固まりのようなものをドバドバ吐き出す所。ずーっとあれか、普通の放射熱線で良かったんだけどなぁ。レーザー光線はなんか違うよなぁ。
家売るオンナ 第2話考察。
引きこもりの城は実在するのか。
不動産関連会社で働いているゆかです。
今までになかった不動産ドラマ、更に大好きな北川景子さん主演!とのことで毎週楽しみに観ています。
第2話は不動産を買って、人に貸して家賃収入で生計を立てるという、賃貸を目的とした売買だったので、実際に現場で家主様と顔を合わせている立場から考察してみようと思います。
- 親から引き継いで家主になっている人は多い。
高齢化社会の波は不動産業界も直撃しています。高齢化と賃貸についてはまた別に記事にするとして、実際に家主様がご高齢で亡くなる方も多いので、ある日お電話したら「父は他界致しまして、今は私が管理してます」というお話を頂くこともしょっちゅうです。
今回のドラマのように両親の他界後に子供(もしくは親族)が引き継ぐというのはよくあることなんですね。
- 家賃収入という夢。
ドラマでは家賃収入が引きこもりの生涯を保証する、もしくは働かなくても一生食いっぱぐれない夢のシステムのように描かれていましたが、現実はもちろんそんなに甘くありません。
税金に対しては詳しくないのですが、やはり相続税や固定資産税、名義変更などの諸手続きが必要なのは容易に想像ができます。
私は離婚したときに、二人の名義だった戸建を相手方の名義に変更する手続きをしましたが、それはそれは大変な労力で、二度と不動産には手を出すまいと心に誓った程です。
分譲マンションで同様の労力が必要なのかは分かりませんが、私の場合はお金が掛かりました。それも何とかに対する○分の1円とかが掛かったのです。
つまり「変更手数料○円になりまーす」とか言うレベルじゃ無いのです。資産のうち○割を手数料として支払うというシステムなのです。
私の場合は割合的にそれほど権利を持っていなかったので、数万円で済みましたが、それでも数万です。
丸々権利を譲渡するとか、半々で所有していたら数倍の金額になっていたでしょう。
名義を変更するだけでお金が掛かるということは余り知られていないように思います。
- 家主になるということ。
話が反れました。
例えば今回のドラマでは、不動産購入の時点から息子さんの名義にしたとして、そういった金銭は掛からないものとしましょう。(税金の部分は置いておきます)
借り手も見付かり、月に10万前後の収入が入ってくるとします。
自宅のローンは無い訳ですから、働かずして10万もあれば確かに一人食べていくだけなら何とかなりそうです。
しかし家主というのは誰かに貸したらハイ終わりという立場ではありません。
部屋の設備(給湯器やインターホン)が壊れれば、家主の持ち物ですから、修理金を負担しなければなりません。
仮に入居者の過失であったとしても、全員が全員素直に申し出る入居者とは限らないわけで、明らかに入居者の過失であるにも関わらず入居者が認めなかった場合(最近だと大概入居時に保険に入らされるので、それで賄えることが多いのですが)、最悪その入居者と争うことになります。
入居中に問題が無くても、退去時に大きな問題が発覚したり、金銭面でトラブルが起こることはママあります。
また、分譲マンションの場合、現状回復の工事に入るだけで管理会社に申請が必要なケースが多いです。
またその申請というのが“工事の1ヶ月前に届けること”とか制約が付いてるものがほとんどになります。
購入時に渡されるマンション管理規約にはしっかり明記されているのですが、なかなかそこまで把握している家主は少なく、工事発注後に「1ヶ月も空室にしておく訳にはいかないんだよ!こっちは生活掛かってるんだからさ」と怒鳴り込んでくることもしばしです。
- 結論
つまり、家主には①入居者および仲介業者、ならびに施工会社とやり取りが出来る最低限のコミュニケーション能力②突然の出費に備えることが出来る経営能力の二つが必要だと言えます。
今回のビビる大木さん演じる息子さんのように、一応とは言え社会人経験があり、ブログ等で外界とのコミュニケーションを求めている方であれば、これをきっかけに家主として社会復帰が可能かもしれません。
しかしながら“引きこもりの城”という表現は少々誇大ではないかと考えます。
安易な選択肢には加えていただきたくないものです。
三軒屋さんの言葉を借りれば「知ったこっちゃあない」話です。
家を売るその目的を達成することだけが三軒屋さんの“仕事”であり、このドラマの魅力なのですから。
7月の終わり。夏の始まり。
梅雨も開けると今年ももう終わったなぁと思う。
多くの人がそうだと思うが、夏は何だか心がざわついてしまって苦手だ。
その夏のざわめきが好きな人もいるだろうけど、私は落ち着かなくて嫌だ。
毎日が同じ繰り返しだったらと願う私にとって、突如与えられる40日間の“夏休み”という巨大な異空間は、気持ちを持て余すのに十分な存在だった。
そんなぽっかりとした夏休みを失って、早20年弱。
社会に出てからは“夏休み”という言葉すら存在しない仕事ばかりが続いて、連休を取ることさえ頭になかった。
ある意味、自分が求めていた、予期せぬトラブルを抱えた[日常の延長]が夏にも続くこととなる。
それでも仕事というのはいつも同じことでは回らなくて、どちらかというと割り込み仕事や理不尽な要求の連続で、日常という言葉にある安穏としたイメージとは程遠く、日常そのものをごった返しながら、ここまでゴロゴロと身を削って生きてきたように思う。
今年の二大イベントであった引っ越しと猫を飼うことは既に達成してしまった。
我ながら感心するけど、平穏な日常の繰り返しが欲しいだけなのに、私の人生は常に変化している。
猫は想像以上に大変だった。まだ子猫だからどこにでも登るし、何でも噛むし、気がつくと足元にいる。
いつでもほわほわあったかい彼が近くにいてくれるのは癒されるけれど、それ以上に彼の身を守ることと、自分のご飯を守ることに精一杯になるとは思わなかった。
彼は火の点いたガスコンロに平気で飛び乗るし、隙あらば私のご飯やコーヒーに口をつけようとする。
やんちゃでわんぱくで猫ノイローゼ気味にもなったけど日々折り合いをつけている。
何せこれから10年以上一緒に過ごす家族なのだ。
7月の終わり、夏の始まり。
安穏とした日常を求める。
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